八田與一と嘉南平原 台湾・台南:烏山頭ダムに行く前に!

来日する外国人観光客が”東京”から京都・大阪・北海道・沖縄と地方にまで足を伸ばすようになっています。逆に台湾では、日本人が台北から地方都市へ訪問する人が増えているようです。単なる観光もいいですが、観光に飽きたリピーターには、ちょっとディープな台湾、台南と烏山頭ダムとその周辺を訪問してみるのがおすすめです。

でも、烏山頭ダムを訪問前には、ぜひ八田與一という日本人のことを知っておいてください。 

目次

八田與一の巨大プロジェクト

「オレがこの土地を緑 豊かな大地に変えてみせる・・・」

八田與一が台南に渡った1910年当時の嘉南平原は、60万人もの農民が飢えに苦しみ、飲み水すら手にはいらない荒涼とした大地であった。

東京帝国大学で土木工学を学んだ八田與一は、農民を苦しみから救い台湾を発展させるため東洋一の広さ(当時)となるダムを建設事業し、嘉南平原全域に灌漑用水路の整備するプロジェクトを立案した。

[aside type=”normal”]広さ:約1500平方キロメートル(東京23区の倍)
水路の全長 約16000キロメートル(万里の長城の2倍)
予算規模:現在の価値に直して 5000億円以上[/aside]

八田屋の大風呂敷と言われる八田與一だから立案できた日本国内でも類を見ない巨大プロジェクトである。

 

八田與一の考え方と人柄

アメリカへ渡り、総工費の1割に相当するアメリカ製大型重機の大量購入した。 

大型重機の導入は扱い方を知っている人がおらず、工事費が高くなるため多くの人達から反対された。

しかし大工事を人力に頼っていては完成が20年以上遅れる。工期が早まれば、それだけ嘉南平原の土地が肥え収穫高かが増え、結果的に安くなることを訴えた。 重機を使いこなす者が育ち、重機を使った工法でのプロジェクト成功が広まれば人力に頼る多くの工事が重機の必要性が認知され、日本の土木建築技術の改革へとつながることまで八田與一は見据えていた。

そして大型重機の導入は工期短縮だけでなく、作業員たちの負担を格段に軽くできるものであった。

 

家族がいれば働く上での励みになる・・・作業員が家族と暮らせる宿舎を建設した。

烏山頭ダムの工事では、作業員は工事現場に家族連れで移り住むことができた。八田與一自身も日本から家族を呼び寄せていた。

作業現場に家族とともに過ごせる広い宿舎を建設すれば工事費も増えるため、もちろん前例のないことであった。しかし、八田與一は辺境の地だからこそ家族を心の拠り所にして仕事ができる条件を整えてこそ、安心して完璧な工事ができると考えていた。手抜きや失敗でダム建設が失敗する方が無駄遣いであると、技術者を大切に扱った。

烏山頭の工事現場は、家族を含めると1000人以上が住んでいた。人里離れた烏山頭である。学校(※)や病院だけでなく、テニスコートやクラブなど娯楽施設も造り、巡回映画を呼び寄せ、祭りを催した。技術者の家族が寂しくなく快適に過ごせることにも気配りをした。

 八田與一が整えた「六甲尋常高等小学校」は、現在でも同じ場所に「今臺南市六甲鄉嘉南國民小學」として存在している。むろん当時木造だった公社はコンクリート造りになっている。

 

マラリアもある不衛生な地だから衛生面にも取り組んだ

原生林が広がる烏山頭ではマラリアが蔓延していた。マラリアに侵されると生命の危険にもさらされる。そのため病院には隔離病棟を作り、マラリアが蔓延した際には、高価な特効薬 キニーネを日本から取り寄せて作業員に与えた。しかし、キニーネには、頭痛やめまい、耳鳴り、吐き気や嘔吐、食欲不振、発疹などの特有の副作用があり飲むのを嫌がる人が多かった。與一は薬を嫌がる者の家を一軒ずつ回り、薬を飲み込むのを見届けることまで行った。

余談:日本人と台湾人

八田與一は、日本人と台湾人の部下や技師さん達を差別しなかた。だからこそ台湾の人々が次第に心を開いていった。

しかし、烏山頭職員の俸給については日本人にのみ年俸の5割~6割の加俸がなされていたのも事実である。日本の内地から僻地である台湾への赴任であり、僻地手当のようなものであり優秀な人材を集めるための制度である。だが、同じ仕事をしていて日本人にだけ加俸が付く制度は台湾人から見れば差別だったとの指摘がある。

 

2つの悲劇

大事故「ダム工事をやめよう」

着工から2年後 トンネル工事の最中に、石油ガスによる爆発事故が発生した。日本人を含む作業員50名以上が死亡する大事故であった。

そのため事故を起こしたトンネル工事へ非難が起こり、工事中止の声まであがった。

だが、死者の出る事故の責任を感じ八田與一が落ち込みを聞いた台湾の人々が「今、ダムを造ってくれなければ、私たちは食っていけない」とプロジェクト中止の撤回と工事の完成を諭された。

 

関東大震災

1923年関東大震災が東京を襲った。日本における未曾有の危機に内地復興が優先され、烏山頭ダム建設プロジェクトの予算が縮小された。

そのため技師職人の給料が払えず、工事を一時縮小して人員を整理することとなった。

八田與一は、有能なものには働き口があると腕の良い技術者から解雇した。 

自ら資金調達に走り回りプロジェクトの存続に奔走した。その甲斐あって関東大震災から9ヶ月後には、工事を再開し退職者を再び雇用することができた。

 

ダムの完成と八田與一の銅像

着工から10年、烏山頭ダムが完成した。

荒涼とした嘉南平原は肥沃な穀倉地帯へと変貌し、農民は貧しい暮らしから抜け出すことが出来た。農民たちは八田與一に深く感謝をして、ダムの銅像を建てた。

記念的銅像は立像か胸像であることが一般的である。

しかし烏山頭ダムにある銅像は座像である。それも作業服姿で何か考え事をしているような姿だ。

これは、一度は申し出を断った八田與一が、周囲の求めに応じて承諾するにあたり、「威厳に満ちた顔つきで台の上に立つ銅像ではなく、一技術者としてのありのままの姿の像を珊瑚潭(烏山頭ダム)が見下ろせる場所に直接置いてほしい」と希望したから。

太平洋戦争の戦況が厳しくなると金属製品は供出を求められた。烏山頭ダムを見つめる八田與一の銅像も その場所から消えた。当然、八田與一像はこの世にないものと考えられていた。

ところが、1981年、八田與一の銅像は再び、元の場所に戻された。その際、八田與一を直接地面において、泥で汚れさせるのは忍びないと台座をつけて設置されている。

なぜならば日本敗戦後、偶然にも日本人の少年によって、台南「赤嵌楼」裏で発見されていた。しかし台湾は国民党政権下。日本人の銅像は壊され、没収され、代わりに蒋介石の銅像が建てられていった時代である。発見されたが大々的には公表することができず、農民たちが地下室に隠し守っていったのである。

 

まとめ

八田與一は、太平洋戦争最中の1942年、灌漑用水路調査でフィリピンへと向かう途中、船が潜水艦からの攻撃を受けて沈没、享年56歳であった

台湾の歴史教科書に取り上げられ、今でも語り継がれている。収穫される米やサトウキビは、台湾の農村の暮らしを劇的に変えた。そこに、八田與一という日本人の偉業があったことを、台湾の人々は忘れていないのである。

 

最後に

本:台湾を愛した日本人(改訂版) -土木技師 八田與一の生涯-

烏山頭ダムのプロジェクトを八田與一技師という人物を通して調査研究をした本です。土木学会賞を受賞した本だけあり、コンクリートを殆ど使わずに造るセミハイドリック工法など土木建築分野について詳述されています。また、嘉南平野全体を 3 つに分けて,給水区域を変え 稲,雑作,さとうきびを順番に耕作する三年輪作給水法を導入する農政改革の切り口からも読み解くことができます。
動画資料で全体像を把握した後に、読み解いてみるとより理解が進むはずです。
 

映像資料:世界を変える100人の日本人!台湾で愛された日本人~八田與一 

映像資料:八田與一 台湾の教科書に載っている日本人の物語

その他

 

空撮映像

現地では目の前に広がる巨大なダムを見ることができる。銅像や八田與一の記念館がある。しかし、造ったからダムを見ることからダムを造った効果を感じるのは難しい。あまりにも広大な大地に効果をもたらすダムだからこそ空中からの映像で確認してほしい。田畑に行き渡る水は烏山頭ダムから農地用水路を流れてきたのである。

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